馴れ初め
母がピアノ講師をしていたため、物心がつく前から、私の生活の中には常にピアノがありました。
初めてのピアノの記憶は、母が弾くドビュッシーの『花火』の曲を真似して弾こうとしたことです。
真ん中の鍵盤を弾いた後、右へ、そして左へと飛んでみたり、遊び弾きを楽しんでいました。
そんな私に、母は自然にピアノを教え始めました。
初めてのピアノ教本を開いた時のワクワク感は今でも覚えています。
その教本には「ドレミファソラシド」の風船の絵がありました。特に、「ド(低い)」と「ド(高い)」が同じ名前でありながら音が異なることに戸惑いました。
そして、「ド」の次には「レ」そして「ミ」と続くことに驚き、何故音がたくさんあるのに名前は七つだけなのか、非常に不思議に思いました。
ピアノの先生に通い始めたのは小学1年生の時です。
当時、母に「留学から戻られた先生にピアノを習いたい?」と尋ねられた時、「習いたい!」と即答したのを覚えています。
大人になって振り返ると、母の生徒さんたちが弾くピアノを家で聴く機会が多く、それが今でいう「聞き流し」の形でインプットされていたことに感謝し、自分の曲を弾く際にも漠然と方向性を掴むことができたことを実感していました。
練習(アウトプット)よりも多くの時間をインプットに使っていたことが今の自分に繋がっています。
習いごと
ヤマハのレッスン会場へは車で約1時間。
毎週通わせてくれた両親に感謝しています。
オーケストラ作品のアンサンブルなど、楽しい時間がたくさんありました。
しかし、車に弱い私はレッスン終わり頃やっと気分が晴れてくるという感じでした。
さらに、多くのできるお子さんがクラスにおり、移調や伴奏付けの日々の発表、自作曲の発表など、内気で引っ込み思案だった私にはとても苦手な面でもありました。
バイオリンも少し習っていましたが、構えがきつく辛かったことを覚えています。
しかし、弦の振動を直に感じて音を作る感覚は非常に貴重な体験であり、それが現在の音色作りに繋がっています。
おもしろいことに、その教室では俳句の暗唱も宿題として出されていました。
幼い頃に何度も口ずさんだ俳句は今でも覚えており、日本語の語感に触れる良い機会でした。
バイオリンと俳句、一見関連がなさそうなものが時間とともに繋がり、私に新しい世界感を与えてくれました。
この経験は、子供たちにもさまざまな経験をしてもらいたいという思いへと繋がっています。
また、水泳や公文も習いましたが、小学四年生を境に音楽関連のソルフェージュや音楽理論のレッスンへと切り替え、本格的に音楽の道へ進むことになりました。
ピアノコンクール
小学3年生で受けた初めてのコンクールで銅賞を受賞しました。
そのときの喜びは今でも覚えています!
また、お友達のキラキラとした演奏や上の賞を取った子たちに憧れを持ちました。
当時の私は食が細く体が小さく、ピアノの音量を十分に出すことができませんでした。
聴きに来てくれた祖母からは「もっとご飯を食べて」と言われるほどでした。
しかし、その後はよく食べ、運動もしっかりとするようになったため、音量の感想はなくなっていきました。
やはり体格や体重といった身体の成長が、演奏にも大きく影響することを実感しました。
小学6年生で地元のコンクールで金賞を頂き、中学生になると全国規模のコンクールでも次第に上位の賞やステージに進むことができるようになりました。
それに伴い、人前で演奏することが楽しくなってきました。
コンクールや本番の経験が増えるにつれ、ホールの響きに合わせた弾き方や音色の作り方、そして本番までのペース配分などを少しずつ掴むようになりました。
この経験は現在、私が生徒たちのレッスンや本番の準備をする際に非常に役立っています。
他の参加者の綺麗な音を聴いて、「私もあんな音色を出したい」と思いながら練習しました。
目標を持って練習するようになってから、「音色がきれい」「タッチが違う」と評価されることが増えていきました。
また、練習はピアノの先生の家をお借りして、学校の帰りから5〜6時間行っていました。
毎日のことで練習が嫌になっても、先生の家でピアノの音が止まると休んでいることがバレてしまうので、ピアノを弾きながら本を読むこともありました。
ソルフェージュを始めて
音楽理論やソルフェージュを学び始めた当初、自分で学んでいく方針の教室だったため、最初の3〜4年間はとても苦労しました。
特に音の聴き取り(聴音)では、今まで家で音楽を聞き流す環境だったこともあり、ピアノを弾くというアウトプットには役立っていましたが、楽譜を読み取る力が乏しいことが裏目に出ました。
聞いた音楽を楽譜に起こす際にはどう書けば良いかわからず、ノートは赤ペンでの訂正だらけでした。
このことから、自分では理解できていると思っていたことが、視点を変えると実はそうではなかったことに気づきました。
さらに楽典の勉強では、教本を自力で読み、問題を解いて正解になるまで帰れないためとても四苦八苦しました。
レッスンの初めの頃は次第に怠けるようになり、ストレスで蕁麻疹が出るほど精神的にも辛かったです。
しかし、徐々に理解できるようになり、音楽高校時代にはソルフェージュの授業を余裕で受けられるようになり、次第に楽しくなっていきました。
自ら本を調べ、ノートで試行錯誤を繰り返しながら学びました(もちろん、先生の絶妙な指導のおかげでもあります)。
この経験は大きな自信となり、ソルフェージュの勉強から「学び方」を身につけました。
この「学び方」は、大学入試や大学生活でも、さらには社会人になってからも役立ち多くの財産となりました。
勉強の仕方を学び、自信を持てたことは私にとってとても貴重な経験です。
2回の海外体験
中学の時にヨーロッパピアノレッスンを受けに、高校の時にアメリカに演奏旅行へ行きました。
ヨーロッパではウィーン音楽大学のエーベルト先生のレッスンを受講し、先生のクラスへの入門許可というお話をいただきました。
中学1年生の私は飛び級をする勇気がなく、結局その申し出を断念しましたが、レッスンがとても楽しく、無心に音楽に集中できたことは素晴らしい経験でした。
高校時代には、アメリカのジーナ・バックアウワー国際ピアノコンクールのエキシビションコンサートに出演するために渡米しました。
エキシビションコンサートの他にも街角での演奏会があり、聴いてくださった方々から「ブラボー」を頂き、サインを求められることもありました。
とても光栄な経験でしたが、サインを書いたことがなかったので、迷いつつも漢字で応じた記憶があります。
この演奏も曲のイメージに集中して弾けたものでした。
無心に音楽に入り込んで演奏するとき、頭で考えている以上の何かが生まれ、聴いている方々の心に響くのだと感じた体験です。
大学時代の困難
希望大学に無事合格し、1月が過ぎた頃、突然左手が浮腫んで動かなくなりました。
後から思うに、神経に小さな傷ができそれに伴う精神的な要因も重なった結果だと思いますが、当時は原因が分からず、腱鞘炎でもなかったため、最終的には東大病院まで行って検査を受けました。
結局原因はわからず、「精神的なもの」という診断を受けました。
手を動かせなかったため、ピアノを弾くことはもちろん、音大の授業も受けられず、先生に事情をお伝えして見学する日々が続きました。
下宿先に帰ればピアノの練習音が絶えず聞こえ、最高の環境が一転してしまいました。
弾きたいのに弾けないもどかしさと、原因がわからず安静にしているしかない状況に苦しみました。
これまでは全てがピアノ中心だったため、意識を別の方向に向けるようになり、読書や語学などを始めました。
逃避のつもりでしたが、思いのほか面白く、そこから新しい世界に夢中になっていきました。
手の状態は2か月頃から腫れが引き始め、ピアノを徐々に再開しました。
腫れが出てくると練習を中断し、左手を思い切り動かしたり、手を広げて弾くことや音量を出すなど、手に負荷をかけることは非常に怖く思いました。
当時ピアノの先生に「私もみんなのように大きな迫力のある音を出せるようになるのかなぁ」と話したところ、「できるよ。思いは実現するよ」と心に残る言葉をいただきましたが、理想と現実の乖離は大きかったです。
じっくりと手の状態と向き合う時間を頂けていたので、手の形や弾き方を1から見直す貴重な時間を過ごすことができました。タッチの本や脱力に関する書籍を読み、手の形を修正しながら練習を続けました。
鏡を使うことで客観的に自分を観察し、効率的な身体の使い方や脱力を学ぶことができました。
歌うことで身体も音楽も自然体になり、納得ゆくまで練習することができました。
大学2年生の試験前、手の状態が再び不安定になり、試験が受けられなかったことは非常にショックでした。
友人や先輩のように大作を弾けないまま、大学の授業も見学して単位は取れるけれどこのままで良いのか悩んだ末、1年間休学しました。
手の故障から3年経ち、だいぶ弾けるようになりました。弾けることが嬉しくて、大学のレッスン曲以外にも様々な曲に挑戦しました。
最終的には2週間で8作品を暗譜まで仕上げることができ、楽譜から得られる情報量の見極めや初見力など多くの力を身につけました。
逆にピアノに夢中になりすぎて、大学の先生から「遊びなさい」と助言もありました。
金髪にして街を歩いても良いからはめを外せと言われるほどでした。
1日14時間練習していた時期もありましたが、ある時、練習しても上達しない行き詰まり感を感じました。
気分転換に映画を見に行き、その後弾いたピアノがとても新鮮に感じられました。
ピアノ学習はピアノの前での時間以外にも学びがあることを知り、自分の限界を知ることも大きな財産となりました。
卒業試験では高得点を取ることができ、他の先生方からも「良かったわよ」と声をかけていただき、とても嬉しかったです。
今では生徒さんに、身体の使い方や、弾けない時の指のトレーニング方法、また難易度が上がった時の改善点などを教えられるようになりました。
大人の生徒さんからは「ピアノクリニック」と呼ばれ、驚いた反面、とても嬉しい気持ちでいっぱいです。
手の故障は辛い経験でしたが、そこから多くの宝物を得ることができました。
本格的なソルフェージュ
大学院ではソルフェージュ科に進学しました。
ソルフェージュが好きだった点や、楽譜をもっと深く読み込みたいという気持ち、さらにスコアリーディングや和声、楽曲分析への興味が強かったためです。
ピアノソロからピアノ伴奏、ピアノ周りのことを網羅し、さまざまなことを学べる点が魅力的でした。
私は1期生だったため、指揮法の授業を増やしてもらうなど、積極的に動いて自由な環境で院時代を過ごせました。
修了後は、東京音楽大学の助手や付属音楽教室でソルフェージュの仕事をいただきました。
園児向けのリトミックを知り、これにより今までの疑問点を解決する音楽基礎教育を学ぶことができました。
これらの知識は、3歳以前のお子さまや導入期のレッスンを組み立てる指針となりました。
ピアノ演奏に入る前にできることがたくさんあること、また言葉で教えるのではなく、体験や遊びを通じて音楽に繋がる発見を子どもたち自身が行う点や、身近なところから音楽を発見していく点など、多くの学びを得ました。
小さなお子さんには、遊びや身の回りが音楽と結びついていることや、音楽的なことを考えるのは楽しいことだと伝えたいと思うようになりました。
これにより、保護者の方々からはとても分かりやすいと評価していただくことが増えました。
付属音楽教室の後は、東京音楽大学付属高校でソルフェージュの授業を担当するようになりました。
ヤマハに通っていた当時、作曲が苦手だった私が、毎週授業に使う課題を作るようになり、この経験も今非常に役に立っています。
地元で教え始める
自宅レッスンとヤマハの個人レッスン講師としてスタートしました。
個人レッスンのみで始めたのは、1人1人に寄り添い、成長を一緒に並走できるようなレッスンがしたいと思ったからです。
それぞれの生徒の個性や課題に一緒に向き合い、長期的な関わりの中で学ぶ方法や、困難な時こそ人生を豊かにするチャンスであること、ピアノや音楽がその助けになってくれること、そして音楽が言葉を超えて人とコミュニケーションを取るための尊いものであることなどを伝えたかったからです。
リトミックの経験を活かし、楽譜に触れる前やピアノを弾き始める前の導入期に、リズムや音の仕組みなどを楽しく自然に学んでいけるようにレッスンを組み立てるようになりました。
これにより、小さなお子さんが「今日何して遊ぶ?」と楽しみにレッスン室に駆け込んできてくれるのを非常に嬉しく感じています。
オペラ伴奏
今までソロ曲ばかり弾いていた私にとって、歌詞のあるオペラの作品に触れることと、アンサンブルの楽しさが加わり、新しい魅力に夢中になりました。
オーケストラの音をピアノで再現する難しさや、ピアノのソロ作品とは違った膨大な準備が必要でしたが、その分やりがいがあり楽しく活動しています。
また、学生時代に学んだ脱力や歌うこと、院時代に勉強したピアノ周りの知識がつながってきたことを実感し、とても嬉しいです。
先日の合唱団のコンサートでは、私の左手の低音が好きだと言ってくださる方がいて、とても励まされました。
出産を機に
息子が我が家に来てくれましたが、高齢出産だったためか、身体が1年以上辛く、めまいも経験するなど大変な日々が続きました。
そのため、東京音楽大学での仕事を断り、地元での個人レッスンもセーブしながら、ほぼワンオペで子育てをしていました。
小さなお子さんのいる家庭の視点で習い事の事情を見るようになり、子どもには楽しく音楽に触れて欲しい、またその中で多くの音楽的な種を蒔きたいと思い、リトミックのレッスンを始めました。
5年が経ち、リトミックから育った子どもたちがとても音楽的であることを実感しています。
楽しく、心を開いてたくさん音楽に触れた子どもたちの今後の成長が非常に楽しみです。
また、幼児期のレッスンではこの点が非常に重要だと感じています。
今は、英語とリトミックを組み合わせ、一つの習い事の中で最大限にお子さまに音楽の種を蒔くことができないか模索しています。